家で
「美人の〈和〉しぐさ: 大和撫子のマナー」という本を読んでいます。
小笠原流はいつのまにか女性の礼法になってしまいましたけれど元来は武士の礼法だったそうです。
全てが電子メールで済んでしまう現代、手紙を書いたとしてもワードだか一太郎だかで機械の文字、そんな時代でも肉筆の手紙が何故必要なのかという理由が書いてあります。
今、手元に本がないのですけれど、つまり手紙を出す相手に対してどれだけ苦労したかの表現だということです。
手紙の文面の末尾に相手が男性ならば「机下」と書くのは机の上から渡すなんて恐れ多いので机の下から、すっと渡します…というような礼法は貰った相手もその意味を知らないと心は通じません。
しかし相手がそういった決め事を知らなくても肉筆で書かれた手紙であるというだけで苦労して書いたという事実は相手に伝わります。
文字が上手いか下手かというのは二の次です。
手紙は書いてある文字の内容さえ伝われば良いというものではないようです。
言外の言葉、意味、気持ちも伝わります。
インターネットだか電子メールだか知りませんけれど個人を基準に考えるならば全てが楽に簡単に変わって来ています。
多分、それは良いことなのだと思います。
無駄を排除してできた時間を大切なことをするために使えます。
ところが楽に簡単に済まされた相手は気持ちが良いとは思わないのではないでしょうか。
自分が“無駄”な相手だと思われているような気はしないのでしょうか?
多分、お互いに同じことをやっているから気付かないんでしょう。
実体のある手紙なだけましなのでしょうけれど機械打ち、それも毛筆体の機械打ちの宛名で書かれた手紙なんてのを貰ってじっと意味を考えると馬鹿みたいな気がしてきます。
何のために電子メールじゃなくて、わざわざ手紙にしてるの?何のために毛筆なの?
速く簡単にという時代の要請と相手に対する思いやりは相反する気がします…とインターネットに書いてもまるで説得力がありませんでした。
自慢じゃありませんが私はパソコンを持っていません。
誰かに手紙や葉書を出すとしたなら物凄く苦労しないと書けません。
去年年末の一ヶ月の入院を機に年賀状は一切やめてしまいました。